【瞑想の悩み】ヴィパッサナー瞑想と「わたし」の実感 スマナサーラ長老の初期仏教Q&A|ブッダの智慧で答えます(一問一答)

8.6 هزار بار بازدید - 3 سال پیش - 2021年4月22日 (木)アルボムッレ・スマナサーラ長老の初期仏教Q&A@ゴータミー精舎からピックアップしました。(字幕作成:匿名ボランティアさん)
2021年4月22日 (木)アルボムッレ・スマナサーラ長老の初期仏教Q&A@ゴータミー精舎からピックアップしました。(字幕作成:匿名ボランティアさん)

00:00 Q01:……スマナサーラ長老の著書にもあったのですが、六境が有無、自分(六処)が有無で、この組み合わせは4通りです。音と耳にすると、音があるとき耳がある、音がある時、耳がない、音がなくて耳がある、音がなくて耳もない、この4つです。私にとって不思議なのは、私は座布に座って瞑想するのですが、私が有で、座布が無の時、私は一体何の上に座っているのでしょうか?……

17:23 Q01:私というものが存在しないとして、例えば歩くときには、自動的に歩いている訳でなく、明らかに歩こうと思って歩いていると思うのですが、その場合の歩くという機能はどのように成り立っているのでしょうか? 私がいなくてどのように可能なのでしょうか?

25:30 Q01:ヴィパッサナー瞑想の対象として身受心法(四念処)がありますが、このうち身と受の違いがよくわかりません。受は感覚を観察するということで理解できるのですが、身を観察すると言っても、身体の感覚を観察することになり、それは受と同じではないかと思ってしまいます。身と受の違いについてご説明頂けないでしょうか?あと、法の観察対象とは何でしょうか?

■スマナサーラ長老のプロフィール
アルボムッレ・スマナサーラ長老(Alubomulle Sumanasara Thero)
テーラワーダ仏教(上座仏教)長老。1945年4月スリランカ生まれ。13歳で出家得度。国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭をとる。1980年に国費留学生として来日。駒澤大学大学院博士課程を経て、現在は日本テーラワーダ仏教協会で仏教伝道と瞑想指導に従事する。他にNHK教育テレビ「心の時代」出演、朝日カルチャーセンター講師などを務める。『ブッダの幸福論』『無常の見方』『怒らないこと』(和文)『Freedom from Anger』(英文)など著書多数。

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3 سال پیش در تاریخ 1400/03/05 منتشر شده است.
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