罪悪観でつらい人に寄り添う仏教・親鸞聖人の教え

仏教に学ぶ幸福論 by 菊谷隆太
仏教に学ぶ幸福論 by 菊谷隆太
11.3 هزار بار بازدید - 7 ماه پیش - 仏教が日本に伝来して長らくの間、「殺生罪」を犯す輩として蔑視されてきたのが、山で獣や鳥を狩る猟師や、海で漁をする漁師たちでした。猟師・漁師は寺の坊主から「殺生の限りを尽くしている悪人だから、仏の救いに遇えない」と蔑まれ、冷ややかな視線を投げつけられ、猟師・漁師もそんな僧の態度にひがみと苛立ちを募らせ「どうせ殺生の限りを尽くしているオレたちなんかに、仏教は縁のない教えだ」と仏教嫌いを自認する人が多かったのです。 その一方で猟師・漁師たちは心のどこかで、動物を殺すことを「殺生罪」と説く釈迦の教えに、自分でも見ないようにごまかしてきた己の罪深さを、ずばり仏に言い当てられた気がした人も少なからずあったでしょう。「獣や鳥も、俺たちと同じように、親子・夫婦が支え合って一生懸命生きている。死にたくないのも人間と一緒だ。舟に上げられた魚がピチピチはねるのも、首を抑えつけられた山鳥がばたばたもがくのも、矢が刺さって走れなくなったウサギがなおも必死に逃げようとするのも、死にたくないからだ。その獣や鳥を刃物で止めを入れる時の、彼らの怯えた目。断末魔の鳴き声。動物の最後の時に見せる目や鳴き声がまぶたに浮かぶ。もし殺されていく動物たちが人間の言葉をしゃべれたら“嫌だ、死にたくない、助けてくれ”と懇願しているに違いない。あれはそういう鳴き声だ。“何で一方的にこんな目に遭わなければならないのか”“何て人間は残酷なんだ”と理不尽さに怒りと悔しさをぶつけるだろう、彼らはそういう目をして死んでいく。そんな動物たちの必死な思いをいつも無視して、問答無用で手にかけて殺し続けているオレたちが、仏の救いに漏れているというのなら、それも当然かもしれない」 生きるためと言い訳しながら、恐ろしい振舞を日々重ねる自己の姿に、どこか後ろめたさを抱える猟師・漁師たちは「どうせおれなんか救われるはずない」と人生に自暴自棄で、投げやりでした。そんな彼らにとって嫌で仕方ないものが、頭を丸め、袈裟を着て、香を焚き、清廉潔白の風体で、厳かに振る舞う僧侶の姿でした。日々、その手を動物の血で濡らし、魚獣の匂いが染みついた漁師・猟師とは全く違い、功徳を積んでいる自分は浄土へ生まれられると信じて疑わぬ澄ました態度が鼻につくのでした。 きらびやかな袈裟に身を包む坊主らの説く仏教は「極楽浄土へ往けるのは戒律を守る者、寺に財物を寄進する者」という教えであり、それは彼ら猟師たちには「お前たちなど、最初から切り捨てられている存在だ」とあてつけられているとしか思えないものでした。 そんな中、「それは決して真実の仏法ではない」と宣言されたのが親鸞聖人だったのです。僧侶も、在家の人も、老いも若きも、男も女も、善人も悪人も差別なく、全ての人が救われるのが阿弥陀仏の本願であることを、親鸞聖人は徹底して説き明かされました。
仏教が日本に伝来して長らくの間、「殺生罪」を犯す輩として蔑視されてきたのが、山で獣や鳥を狩る猟師や、海で漁をする漁師たちでした。
猟師・漁師は寺の坊主から「殺生の限りを尽くしている悪人だから、仏の救いに遇えない」と蔑まれ、冷ややかな視線を投げつけられ、猟師・漁師もそんな僧の態度にひがみと苛立ちを募らせ「どうせ殺生の限りを尽くしているオレたちなんかに、仏教は縁のない教えだ」と仏教嫌いを自認する人が多かったのです。



その一方で猟師・漁師たちは心のどこかで、動物を殺すことを「殺生罪」と説く釈迦の教えに、自分でも見ないようにごまかしてきた己の罪深さを、ずばり仏に言い当てられた気がした人も少なからずあったでしょう。
「獣や鳥も、俺たちと同じように、親子・夫婦が支え合って一生懸命生きている。死にたくないのも人間と一緒だ。舟に上げられた魚がピチピチはねるのも、首を抑えつけられた山鳥がばたばたもがくのも、矢が刺さって走れなくなったウサギがなおも必死に逃げようとするのも、死にたくないからだ。
その獣や鳥を刃物で止めを入れる時の、彼らの怯えた目。
断末魔の鳴き声。
動物の最後の時に見せる目や鳴き声がまぶたに浮かぶ。
もし殺されていく動物たちが人間の言葉をしゃべれたら“嫌だ、死にたくない、助けてくれ”と懇願しているに違いない。
あれはそういう鳴き声だ。
“何で一方的にこんな目に遭わなければならないのか”“何て人間は残酷なんだ”と理不尽さに怒りと悔しさをぶつけるだろう、
彼らはそういう目をして死んでいく。
そんな動物たちの必死な思いをいつも無視して、問答無用で手にかけて殺し続けているオレたちが、仏の救いに漏れているというのなら、それも当然かもしれない」



生きるためと言い訳しながら、恐ろしい振舞を日々重ねる自己の姿に、どこか後ろめたさを抱える猟師・漁師たちは「どうせおれなんか救われるはずない」と人生に自暴自棄で、投げやりでした。



そんな彼らにとって嫌で仕方ないものが、頭を丸め、袈裟を着て、香を焚き、清廉潔白の風体で、厳かに振る舞う僧侶の姿でした。
日々、その手を動物の血で濡らし、魚獣の匂いが染みついた漁師・猟師とは全く違い、功徳を積んでいる自分は浄土へ生まれられると信じて疑わぬ澄ました態度が鼻につくのでした。



きらびやかな袈裟に身を包む坊主らの説く仏教は「極楽浄土へ往けるのは戒律を守る者、寺に財物を寄進する者」という教えであり、それは彼ら猟師たちには「お前たちなど、最初から切り捨てられている存在だ」とあてつけられているとしか思えないものでした。



そんな中、「それは決して真実の仏法ではない」と宣言されたのが親鸞聖人だったのです。
僧侶も、在家の人も、老いも若きも、男も女も、善人も悪人も差別なく、全ての人が救われるのが阿弥陀仏の本願であることを、親鸞聖人は徹底して説き明かされました。



阿弥陀仏の救済の相手は「すべての人」、本当に助けてやりたい仏のお目当ては「殺生せずしては生きられぬ、どうにもならぬ悪人」であることを明らかにされたのです。
ここに万人救済の大道がひらかれました。



人からさげずまれ、仏の教えにも見捨てられていると、ひがみ、冷め切っていた猟師・漁師達の孤独な魂は、親鸞聖人のご説法に、どんなにこそ勇気づけられ、励まされたことでしょう。


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(自己紹介)
1988年早稲田大学を中退し、仏教講師の道を目指す。
浄土真宗親鸞会で仏教講師の資格を取得、全国各地で公開講座を始める。
2010年からメールマガジンをはじめ、読者12000人の仏教最大級のメルマガ執筆
2014年からは全国をつなぐオンライン講座の動画レクチャーでも活動中。
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7 ماه پیش در تاریخ 1402/11/26 منتشر شده است.
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