神様のご招待
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8 ماه پیش
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私達の世界には、人は幸福になる、、、なれる、、、というストレスが存在します。それは素朴でありがたい願いではあるものの、大きなお世話でもあります。
人の幸不幸は個々が勝手に思うもので、人様からとやかく言われるものと違います。しかも、私たちが考える幸不幸自体が、多くの場合逆転しているからです。
では、幸福はどこにあるのでしょうか。成功にでしょうか、、、豊かさにでしょうか、、、地位にでしょうか、、、好きな生き方にでしょうか、、、
幸福になった人が、常に幸福だと、それに飽きるということはないのでしょうか。釈迦は高い地位に生まれて何不自由なく暮らしていましたが、他の生き方を求めて出家してしまいました。
そして厳しい修行をしていきますが、どうしても悟れません。あきらめて死をおそらく覚悟して死ぬまで瞑想しようと菩提樹の下に座ったのだと思います。
私達の世界には、人は幸福になる、、、なれる、、、というストレスが存在します。それは素朴でありがたい願いではあるものの、大きなお世話でもあります。
人の幸不幸は個々が勝手に思うもので、人様からとやかく言われるものと違います。しかも、私たちが考える幸不幸自体が、多くの場合逆転しているからです。
では、幸福はどこにあるのでしょうか。成功にでしょうか、、、豊かさにでしょうか、、、地位にでしょうか、、、好きな生き方にでしょうか、、、
幸福になった人が、常に幸福だと、それに飽きるということはないのでしょうか。釈迦は高い地位に生まれて何不自由なく暮らしていましたが、他の生き方を求めて出家してしまいました。
そして厳しい修行をしていきますが、どうしても悟れません。あきらめて死をおそらく覚悟して死ぬまで瞑想しようと菩提樹の下に座ったのだと思います。
山には即身成仏のミイラが出てくることがありますので、最後の死を賭けた修行が確かにあったのだと思います。
釈迦の場合は、死をも忘れて、おなかもすいてきた、、、そこにスジャータが現れて、ミルクを差し出す、、、釈迦はすでに死を受け入れていたので、あえて、スジャータを修行の邪魔として遠ざけることをしませんでした。ただ素直にミルクをいただく。
そして素直にミルクを飲む、、、、おいしい、、、ありがたい、、、生きている、、、生かされている、、、ただそれだけのありがたさにより解脱。
釈迦には何の期待もない、ゼロにいたための現象だったのでしょう。
この構図は今の私たちにももちろん通用します。永遠の原理だからです。悪いことが起きて、どうにもならなくなったというのは、まさに神様のご招待に預かったわけで、それはゼロポイントにおいてしか起こり得ない出来事へと私たちを連れていってくれる道が敷かれたことになります。
讃美歌の312番の3番の歌詞に、「世の友われらを 捨て去るときも 祈りに応えて いたわりたまわん」というのがあります。これがゼロに触れることであり、ゼロの喜びです。
私達はこの世的な多くの幸福と言われるものに、騙されてきたように思います。
不幸の果てにゼロがあり、それに触れることで、ありがたいことはありがたく受け入れ、不幸なことも不幸なまま受け入れられるようになっていく。ゼロが故郷であると知る時代が始まろうとしています。
#ゼロポイント愛#お釈迦様とスジャータ#どうなっても大丈夫
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8 ماه پیش
در تاریخ 1402/10/21 منتشر شده
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