西郷隆盛・有馬新七ら薩摩藩士が守った楠公を祀る神社 〜楠木神社〜

山下弘枝
山下弘枝
313 بار بازدید - 2 سال پیش - 鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城に鎮座する楠木正成を祀る楠木神社へ。徳川光圀が『大日本史』を編纂するに際し、大楠公の偉大な事蹟を敬慕し、大楠公殉節地である湊川に於いて、楠公墓(五輪塔)を守っていた広厳寺境内に『嗚呼忠臣楠氏之墓』墓碑を建碑した折、木彫りの極彩色の高さ25㎝の三体の楠木正成の遺像を広厳寺に奉納した。その三体のうちの一体が、ここ楠木神社のご神体である。尊王攘夷の嵐の吹き荒れる幕末、薩摩藩士で非常に厚い楠公崇敬者であった有馬新七(1862年の寺田屋騒動で討ち死)が、広巌寺の楠公墓碑に参拝に訪れた折、広厳寺の当時の住職の許可を得て持ち帰り、自身の地元である伊集院石谷(現鹿児島県鹿児島市石谷町)に社殿を造営し、薩摩藩も関わる形にて盛大な遷座祭を行ってこれを祀り、毎年大楠公殉節の日である5月25日に楠公祭を斎行した。楠公祭祀に薩摩藩が関わった理由として、湊川の戦いに於いて、当時の島津家が足利方に加勢して大楠公自刃の直接的な要因となる攻撃を仕掛けた事を、幕末の楠公精神昂揚の気運の中にあって猛省した為ともいわれる。(※諸説あり)文久2(1862)年4月23日夜に京都寺田屋で勃発した寺田屋騒動での薩摩藩士同士の同士討ちにより、有馬新七は串刺しになって討死する。その後、新七の楠公崇敬の遺志は西郷隆盛によって引き継がれ、廃藩後、石谷の楠木神社のご神体は隆盛が造った私学校に遷座され、私学校の守護神として校内に祀られた。しかし、明治10年、私学校の旧士族らによる明治新政府に対する蜂起により西南戦争が勃発。私学校が戦場となると悟った西郷方の腹心・辺見十郎太(宮之城区長)により、県令(知事)大山綱良の許可を得た上で、ご神体を宮之城島津家次席家老・平田家屋敷内(現鹿児島県さつま町)に避難、遷座した。明治18年、宮之城のすぐ間近である現・盈進校近くに鎮座していた松尾神社(現焼き肉店一福)に新たに社殿を造営してご神体を遷座し、神戸湊川神社に因んで社殿を「湊川神社」と命名した。日中戦争から大東亜戦争に至るまで、出征兵士は皆、宮之城の湊川神社に参詣してから出征するのが慣例となった。また、盈進校の児童も兵士らと共に武運長久を祈願し、出征兵士らを駅から見送った。昭和16年、国威発揚の為、宮之城から城之口の現在地に遷座し境内を拡張するべく町民の勤労奉仕作業による新たな境内地の造成が始まったが、戦局悪化の為に中止となった。戦後に城之口の境内地造成と新社殿が完成、遷座し、これに伴い、社名を「楠木神社」と改名し、現在に至る。境内には、西郷隆盛と江戸城開城の大任を果たした幕末明治の政治家「勝海舟」が書いた「惆悵旧歓如夢」碑や貴族院議員・中村正直の悵旧碑などが現存しており、往時の楠公崇敬の気運の高さを今に伝えている。以下、有馬新七が楠公神社で奉斎された楠公祭に於いて奏上した祝詞である。   ●有馬正義(新七)先生『楠公社に祈る』(文久元年九月四日)に曰く、「可掛くも綾に可畏き、楠の神の大廣前に、恐み恐みも申す。神の大御稜威(おおみいつ)は天地に光輝き、御徳は萬世に周(あまね)く充滿(たらは)し、御忠誠は宇宙に照徹坐し、永く我が天皇命(すめらみこと)の御影の御守と成り賜ひ、大御代(おおみよ)は朝日の豐榮登りに榮え坐して、外國の夷狄等も畏み服(まつろ)ひ奉りしを、近年(このとしごろ)に至りて、外國の夷狄等參ゐ來て、畏くも大御國(おおみくに)汚し奉らむとすらくを、征夷府の執事等、忠勤(まめまめ)しき雄心を忘れ、所々の海邊に商館を造り、邪教寺を建て、彌(い)や荒(すさ)びに荒びなすを、今ま現御神(あきつみかみ)と天の下知ろし食す天皇命は、英明(さか)しく坐して、彼の執事等が曲事(まがごと)を深く憂ひ賜ひ、度び々ゞ大勅命(おおみことのり)下し賜ひ、内つ地を整へ夷狄を攘ひ除け賜へる雄々しき宸襟(みこころ)坐しけれど、可畏くも勅命を畏み奉らず、朝廷(みかどべ)を輕蔑(あなど)り奉り、彌に曲事巧み、天皇命は、彌に宸襟を惱まし賜ひき。 かく宸襟惱み賜へるを、諸國の國守・城主等、一人も勤皇の兵(いくさ)を起し、大御國鎭め奉り清め奉れる武臣もなく、一日一日に大御國は彌に疲れ、天の下萬姓は彌(いよいよ)に苦しみ、憤慨(うれた)く遺憾(くちを)しき形勢(ありさま)になむ。かく災難ひの形勢を、神の大御稜威以て、荒ぶる醜臣等を誅(つみな)ひ、夷狄を攘ひ除けて、大御國清め鎭めて、天皇命の宸襟靖め奉り賜へと祈り奉る。 正義、賤しき避遠(ひな)の微臣(やつがれ)なれど、安政五年戊午の年秋九月に、内々の勅品を護り奉りて關東に下り、其の後にも種々謀りて、醜臣等を誅ひ、夷狄を攘ひ除けの策に心力を盡(つく)し侍りしかど、其の事空しく成らず、如此(かくのごと)く宸襟苦しく思食(おぼしめ)すこと、如何(いか)で何(いつ)までも望觀(よそにみ)奉るべき。速かに京に參ゐ上り、荒びなす醜臣を討ちて、朝廷邊に死なまく欲りし侍れど、京遠き避遠の微臣の身にして、然(し)かも所々に關守も嚴重(おごそか)なれば、可爲便(せんすべ)なく、今の度びの有志等(こころざしあるともがら)に謀り、陽明殿より召し上せ賜はむことを申し奉りき。此の事成就らば、諸藩有志の國々を語らひ、勤皇の兵を起して、宸襟靖め奉らむ物ぞと、思ひ起し侍りき。朝な夕なに彌(い)や歎息(なげ)き彌や憤り、天地に充滿して、一向(ひたぶる)に朝廷邊思ひ奉れる眞心を、神もあはれと聞し食し、過ちけむ罪咎は見直し聞直し賜ひて、武事(いくさのわざ)に功業(いさを)ありて、武士の本意を遂げ、朝廷邊(みかどべ)を靖め奉ら令め賜へと祈祷(いの)り申す事の、漏れ落ちむを幸(さき)はひ賜へと、恐(かしこ)み恐み申す。 
鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城に鎮座する楠木正成を祀る楠木神社へ。
徳川光圀が『大日本史』を編纂するに際し、大楠公の偉大な事蹟を敬慕し、大楠公殉節地である湊川に於いて、楠公墓(五輪塔)を守っていた広厳寺境内に『嗚呼忠臣楠氏之墓』墓碑を建碑した折、木彫りの極彩色の高さ25㎝の三体の楠木正成の遺像を広厳寺に奉納した。
その三体のうちの一体が、ここ楠木神社のご神体である。

尊王攘夷の嵐の吹き荒れる幕末、薩摩藩士で非常に厚い楠公崇敬者であった有馬新七(1862年の寺田屋騒動で討ち死)が、広巌寺の楠公墓碑に参拝に訪れた折、広厳寺の当時の住職の許可を得て持ち帰り、自身の地元である伊集院石谷(現鹿児島県鹿児島市石谷町)に社殿を造営し、薩摩藩も関わる形にて盛大な遷座祭を行ってこれを祀り、毎年大楠公殉節の日である5月25日に楠公祭を斎行した。
楠公祭祀に薩摩藩が関わった理由として、湊川の戦いに於いて、当時の島津家が足利方に加勢して大楠公自刃の直接的な要因となる攻撃を仕掛けた事を、幕末の楠公精神昂揚の気運の中にあって猛省した為ともいわれる。(※諸説あり)

文久2(1862)年4月23日夜に京都寺田屋で勃発した寺田屋騒動での薩摩藩士同士の同士討ちにより、有馬新七は串刺しになって討死する。
その後、新七の楠公崇敬の遺志は西郷隆盛によって引き継がれ、廃藩後、石谷の楠木神社のご神体は隆盛が造った私学校に遷座され、私学校の守護神として校内に祀られた。
しかし、明治10年、私学校の旧士族らによる明治新政府に対する蜂起により西南戦争が勃発。
私学校が戦場となると悟った西郷方の腹心・辺見十郎太(宮之城区長)により、県令(知事)大山綱良の許可を得た上で、ご神体を宮之城島津家次席家老・平田家屋敷内(現鹿児島県さつま町)に避難、遷座した。

明治18年、宮之城のすぐ間近である現・盈進校近くに鎮座していた松尾神社(現焼き肉店一福)に新たに社殿を造営してご神体を遷座し、神戸湊川神社に因んで社殿を「湊川神社」と命名した。
日中戦争から大東亜戦争に至るまで、出征兵士は皆、宮之城の湊川神社に参詣してから出征するのが慣例となった。
また、盈進校の児童も兵士らと共に武運長久を祈願し、出征兵士らを駅から見送った。

昭和16年、国威発揚の為、宮之城から城之口の現在地に遷座し境内を拡張するべく町民の勤労奉仕作業による新たな境内地の造成が始まったが、戦局悪化の為に中止となった。
戦後に城之口の境内地造成と新社殿が完成、遷座し、これに伴い、社名を「楠木神社」と改名し、現在に至る。

境内には、西郷隆盛と江戸城開城の大任を果たした幕末明治の政治家「勝海舟」が書いた「惆悵旧歓如夢」碑や貴族院議員・中村正直の悵旧碑などが現存しており、往時の楠公崇敬の気運の高さを今に伝えている。

以下、有馬新七が楠公神社で奉斎された楠公祭に於いて奏上した祝詞である。
  ●有馬正義(新七)先生『楠公社に祈る』(文久元年九月四日)に曰く、
「可掛くも綾に可畏き、楠の神の大廣前に、恐み恐みも申す。神の大御稜威(おおみいつ)は天地に光輝き、御徳は萬世に周(あまね)く充滿(たらは)し、御忠誠は宇宙に照徹坐し、永く我が天皇命(すめらみこと)の御影の御守と成り賜ひ、大御代(おおみよ)は朝日の豐榮登りに榮え坐して、外國の夷狄等も畏み服(まつろ)ひ奉りしを、近年(このとしごろ)に至りて、外國の夷狄等參ゐ來て、畏くも大御國(おおみくに)汚し奉らむとすらくを、征夷府の執事等、忠勤(まめまめ)しき雄心を忘れ、所々の海邊に商館を造り、邪教寺を建て、彌(い)や荒(すさ)びに荒びなすを、今ま現御神(あきつみかみ)と天の下知ろし食す天皇命は、英明(さか)しく坐して、彼の執事等が曲事(まがごと)を深く憂ひ賜ひ、度び々ゞ大勅命(おおみことのり)下し賜ひ、内つ地を整へ夷狄を攘ひ除け賜へる雄々しき宸襟(みこころ)坐しけれど、可畏くも勅命を畏み奉らず、朝廷(みかどべ)を輕蔑(あなど)り奉り、彌に曲事巧み、天皇命は、彌に宸襟を惱まし賜ひき。

 かく宸襟惱み賜へるを、諸國の國守・城主等、一人も勤皇の兵(いくさ)を起し、大御國鎭め奉り清め奉れる武臣もなく、一日一日に大御國は彌に疲れ、天の下萬姓は彌(いよいよ)に苦しみ、憤慨(うれた)く遺憾(くちを)しき形勢(ありさま)になむ。かく災難ひの形勢を、神の大御稜威以て、荒ぶる醜臣等を誅(つみな)ひ、夷狄を攘ひ除けて、大御國清め鎭めて、天皇命の宸襟靖め奉り賜へと祈り奉る。

 正義、賤しき避遠(ひな)の微臣(やつがれ)なれど、安政五年戊午の年秋九月に、内々の勅品を護り奉りて關東に下り、其の後にも種々謀りて、醜臣等を誅ひ、夷狄を攘ひ除けの策に心力を盡(つく)し侍りしかど、其の事空しく成らず、如此(かくのごと)く宸襟苦しく思食(おぼしめ)すこと、如何(いか)で何(いつ)までも望觀(よそにみ)奉るべき。速かに京に參ゐ上り、荒びなす醜臣を討ちて、朝廷邊に死なまく欲りし侍れど、京遠き避遠の微臣の身にして、然(し)かも所々に關守も嚴重(おごそか)なれば、可爲便(せんすべ)なく、今の度びの有志等(こころざしあるともがら)に謀り、陽明殿より召し上せ賜はむことを申し奉りき。此の事成就らば、諸藩有志の國々を語らひ、勤皇の兵を起して、宸襟靖め奉らむ物ぞと、思ひ起し侍りき。朝な夕なに彌(い)や歎息(なげ)き彌や憤り、天地に充滿して、一向(ひたぶる)に朝廷邊思ひ奉れる眞心を、神もあはれと聞し食し、過ちけむ罪咎は見直し聞直し賜ひて、武事(いくさのわざ)に功業(いさを)ありて、武士の本意を遂げ、朝廷邊(みかどべ)を靖め奉ら令め賜へと祈祷(いの)り申す事の、漏れ落ちむを幸(さき)はひ賜へと、恐(かしこ)み恐み申す。

 辭(いとま)別けて祈り申す。朝廷邊に忠勤み奉り、志を遂(と)ぐる幸なくば、かくて世に存命(ながらへ)て空しく月日を送りなむは、本意なき事にし侍れば、速かに身死(まか)りなむ。あはれ、神の御恩頼に依りて、死りて後に、荒魂(あらみたま)振り起し、國賊を滅しなむと、恐み恐み申す。

 文久元年辛酉秋九月四日、有馬新七正義」

国家の為に役に立たぬならば、死して荒御魂を発してでも国賊を殲滅せん、と神前にて誓うこの有馬新七の覚悟たるや、現代日本人には到底、遠く理解に及ばぬものであろうと絶望感にも似た思いにさいなまれるこの頃だが、せめて、彼の「死して護国の鬼たらん」と願う激烈なまでの國體への思いを少しでもいいから知って頂きたい、そう願ってやまない。

#楠木正成  #幕末 #鹿児島県
2 سال پیش در تاریخ 1401/01/21 منتشر شده است.
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